大西宇宙飛行士は、園下教授、そして園下教授と共にSpace Cancer Therapeutics実験の準備を進めている大学院生の平田さんから実験についてのレクチャーを受けました。
園下教授の研究室ではショウジョウバエを使って、膵臓がん、肺がん、口腔がんなどを研究し、がん治療薬の候補物質を発見しています。膵臓がん患者の遺伝子変異パターンを模したショウジョウバエを使った実験では、その物質を投与すると、ショウジョウバエの生存率が上がることが確かめられました。ところが、地上で微小重力を模擬した実験を行うと、候補物質の効果が落ちる可能性があるという結果となったのです。
そこで、微小重力環境ががん治療薬の効果にどのような影響を与えるのかを調べるため、Space Cancer Therapeutics実験を実施することになりました。「この実験を完遂することで、重力と薬効の関係を解明していきたいと考えています」と園下教授は意気込みを語りました。
この研究は、微小重力環境で人間の健康を維持し、宇宙での医療技術を発展させる上で重要な知見をもたらすことでしょう。さらに、地上でより効果の高いがん治療法を開発するヒントが得られるのではないかと期待されています。
新しい知識を生み出す実験
大西:ショウジョウバエの寿命は10日くらいなのですか。
園下:普通のハエは幼虫から成虫になり、3か月くらいは生きます。私たちの実験で使うハエは遺伝子を組換えることで、幼虫の段階で細胞増殖やその影響を観察できるようにしてあるために、成虫になるまでに死んでしまいます。
大西:過重力の実験で重力を2倍にしたとき、がん治療薬を投与しないグループの生存率も上がっていましたが、この現象は予測していたのですか。
園下:その部分に関しては、発現した遺伝子を詳しく分析していないので、まだよくわかっていません。重力の変化によってがん細胞の性質が変わっている可能性と、薬のふるまいが変わっている可能性のどちらも考えられます。
免疫には自然免疫と獲得免疫の2つのシステムがありますが、ショウジョウバエには自然免疫のシステムしか備わっていません。自然免疫だけしか存在しない状態で、生存率が変化しています。
ヒトは自然免疫と獲得免疫の2種類の免疫システムをもっていますので、自然免疫だけを持つショウジョウバエの実験でおもしろいことがわかった場合、その知見をヒトのがん治療に応用しようとすると、獲得免疫の変化なども調べ、より強力な新しい治療法ができるのではないかと期待しています。
まだ何もひもとけていない状態で、どのような結果が出てきても新しい知識となるので、とても興味深い状況です。
説明が終わると、園下教授、平田さんの案内でショウジョウバエを飼育している実験室を見学しました。
大西宇宙飛行士は、ショウジョウバエの飼育環境の説明を受け、宇宙実験で使う飼育容器を手にして、操作方法や実験での注意点などを確認しました。顕微鏡を直接覗き、ショウジョウバエを観察したときには、「こうしてみると興味深いですね。ハエに対する見方が変わりますね」と園下教授に感想を伝えました。
遺伝子組換えハエをしっかりと管理
園下:この実験室が、他の研究室と大きく違うのは、冷蔵庫のようなインキュベーターを15台設置しているところです。このインキュベータでは温度を変えてショウジョウバエを飼育しています。がん患者の遺伝子型を模したハエは、飼育温度で細胞の増殖速度を調整できるようにしてあります。それぞれの実験で効率的に評価のできる温度を探して、その温度で実験を進めています。
大西:ショウジョウバエの遺伝子操作はどのようにするのですか。
園下:目には見えないのですが、特定の遺伝子のDNA配列を用意しておいて、ショウジョウバエの卵に導入することで、ショウジョウバエがもともと持っていたDNA配列に組みこむことができます。そうすると、新たな遺伝子を持った子孫をどんどん増やすことができます。
大西:遺伝子の導入は注射器みたいなものを使って行われるのですか。
園下:マイクロインジェクターという器具を使い、ショウジョウバエの卵に注入していきます。ショウジョウバエの卵の方も、外から入れた遺伝子のDNA配列を自分の遺伝子に組みこみやすくなるような特殊な遺伝子操作が施されています。
大西:ハエの中でもショウジョウバエがいいのですか。
園下:ショウジョウバエは気性が穏やかで扱いやすい、動きがゆっくりで逃げにくい、体が小さくて飼育しやすいなど、様々な利点があります。
(実験室内を仕切っていた薄い布のようなものを指し)
園下:ここに蚊帳を設置しています。遺伝子組換え動物なので、外に逃げられないように蚊帳で仕切り、ハエを捕獲するためのトラップを設置しています。
大西:幼虫だけでなく、成虫も扱うのですか。
園下:私たちは幼虫の段階でスピーディに実験を完了する実験系を確立することに成功しているので、がんの解析自体は幼虫で完結することができます。ただ、実験に必要なショウジョウバエの系統を維持したり、新たな系統をつくったりする際に成虫が必要となりますので、成虫も扱っています。
「きぼう」での実験手順
大西:宇宙実験を行うときは、ショウジョウバエは基本的に容器に入っている状態で、軌道上で開け閉めするようなことはないですか。
平田:容器には成虫のショウジョウバエを入れて打ち上げて、宇宙で交配させ、次世代の幼虫が生まれます。
園下:宇宙に打ち上げる段階では、成虫のオスとメスは別々の空間に入れておきます。そして、軌道上で実験をはじめる段階で2つの容器の間にある仕切りを取ってもらいます。
そうすると、オスとメスが出会う交配が始まります。そのとき、飼育容器を操作してがん治療薬の入った餌箱に交換します。そして、餌箱に卵を産ませた後に、再び餌箱を動かして、親ハエと卵を空間的に分けていきます。卵だけが入った容器は切り離せるようになっていて、その部分だけ細胞培養装置(Cell Biology Experiment Facility: CBEF)に入れて、22℃で14日間飼育した後、凍結します。
大西:その操作を、私たち宇宙飛行士が担当することになるのですね。
園下:はい。これをお願いしたいと思っています。
大西:軌道上では基本的に飼育するだけで、観察したりすることはないですよね。
園下:何度かカメラで撮影して頂くことはありますが、複雑な操作はありません。
大西:地上では見守るしかない状況ですね。軌道上でがんばります。
園下:お願いします。
がん以外の病気の研究にも期待
園下:ショウジョウバエはがんだけでなく、様々な病気の研究に役立つと考えています。例えば、特定の遺伝子が壊れている筋萎縮性側索硬化症(ALS)です。
大西:ALSでは、遺伝子のどの部分が壊れているかというところまでは、わかっているのですか。
園下:わかっています。ハエの中で該当する遺伝子を壊して、その状況を再現した個体をつくることで、病気の治療法を探る研究が進められます。がんだけでなく、遺伝子異常によって起こる病気には、ショウジョウバエを使った研究が役に立つと思いますので、研究範囲を一層広げていきたく考えています。
実験室の見学後、Space Cancer Therapeutics実験をサポートしている株式会社 エイ・イー・エスの山口茜さんを交えて、軌道上での実験操作の手順などを改めて確認しました。
軌道上で宇宙飛行士がやること
大西:Space Cancer Therapeuticsでは、実験サンプルが軌道上に届いたらすぐに実験が始まるわけですか。
山口:そうですね。すぐに容器の仕切りを抜いて、オスとメスが出会える状態にして、CBEFに入れて飼育します。後は、専用の器具を使って餌箱を押しこむことで、親ハエのいる場所にがん治療薬の入った餌箱を移動させます。そして、2日経過すると卵が生まれているので、卵が産みつけられたがん治療薬入りの餌箱を隣の容器にスライドさせ、卵の入った容器だけを分離させます。宇宙飛行士は、この作業を担当します。
実験の後半は卵の入った容器をCBEFに入れ飼育します。そして、飼育期間が終わったところで凍結させて、地上に持ち帰るという流れです。
大西:操作的にはそこまで難しい操作ではないと感じました。
山口:そういう風に考えたつもりではあります。親ハエがいる中で餌を交換しないといけないので、餌の表面に親ハエがくっついてしまうと、容器の隙間に挟まったり、他の場所に移動したりする可能性もあります。そこで、容器を逆さにし、ハエを餌の表面から離した後に(重力が無い状況なので、落とすという表現で引っかかる方もいるかもしれないため)餌箱を交換する作業を行う手順になります。
大西:そこからハエが逃げ出す構造にはなっていないのですか。
山口:ハエが逃避しない構造にはしていますが、このハエは遺伝子組換え体なので、念のため簡易的に組み立てるグローブボックスの中で餌箱交換の一連の作業を行います。そこが少し煩雑かなと思います。
大西:操作自体はそれほど難しいものではないので大丈夫かなと思います。ただ、微小重力では想定しなかったことも起こりますからね。
山口:そうですね、ただ電気的に制御するような装置ではないので、そういった意味では故障の心配はないと思っています。故障の心配はないと思います。また、容器は頑丈なので割れることもないと思いますので、手順通り進めて頂ければと思います。
実験の重要ポイント
大西:作業をするうえで気をつけて欲しいところはありますか。
園下:ハエはストレスに弱いので、強い衝撃が加わったり、温度の急激な変化が起こったりすると、不眠や不妊になったり、死んでしまったりします。デリケートな動物であることを忘れないでいただければと思います。
平田:先ほど、餌箱を変える前に、餌の表面からハエを落とす操作の説明がありましたが、ここを躊躇してしまうと、ハエが別のエリアにいってしまうので、ポンポンと叩いてからすぐに餌箱を押しこむ操作をしてもらえれば大丈夫です。
大西:ポンポンと叩くのは、餌の表面にハエがいるからですか。
平田:餌の表面にいる状態で餌箱を押しこむと、ハエが別のエリアに行く可能性が高くなります。
園下:親ハエは卵をずっと産み続けます。卵を別の空間に移動させるのは期間を区切って実験をしたいからです。卵の移動はこの実験の中でとても大切なポイントになります。
大西:親ハエが移動してしまったら、宇宙飛行士は気づけるものですか。
園下:そこは宇宙から戻ってきたものを見て判断するしかないでしょう。他の容器よりも明らかに幼虫やさなぎの数が多ければ、親ハエが移動したかどうか判断できます。作業の途中で親ハエが移動してしまったら、それはしょうがないことだと思います。
山口:餌箱を移動させた直後の幼虫が育っていない段階で成虫がいたら、見てわかると思います。一応、移動させた後の容器の様子は、動画で宇宙飛行士の方に撮影していただきます。その映像を地上からも園下先生と一緒に確認して、状態を把握する計画になっています。地上からも見えます。
大西:そこでわかったとしても、もうどうしようもないのですか。
山口:対処はできないのでそのリスクは許容する実験設計になっています。
大西:わかりました。
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